FC2ブログ

トラベラーズ ノート まくら木日記

日記・雑記・駅々めぐり。

あれから1年

  ちょうど1年前の2008年11月30日は、新幹線0系の定期運転最終日でした。



  関西では、新大阪発博多行きの「こだま639号」が最終で、私は西明石駅で見送りましたが、日曜日ともあってホームには人だかりができ、上空にはヘリコプターが飛んでいました(動画の3:00ごろから入っている轟音は、ヘリコプターのものです)。高度成長期の国鉄車両には、古くささやあか抜けないイメージがついて回りましたが、0系には(「思い出補正」の部分も含めて)、特別の存在感があったように思えます。

  昨年は、しきりに「追っかけ」をしたものですが、今こうして、そのときの記録を見返すと、本当にもういなくなってしまったのだなという寂しさが、改めてこみ上げてきます。

  そうこうしているうちに、500系の「のぞみ」撤退も、目前に迫ってきました。最高300km/hという未知の領域に挑んだ挑戦者という点で、0系の心意気を受け継いだ車両だと私は思っていますが、皮肉にも0系引退と入れ替わりに、山陽「こだま」の任に就き、来春には「300km/h」を捨てることになります。

500kodama

  待ったなしに訪れる、新幹線の世代交代。再来年の春には、ここに「さくら」という新たな顔が加わることになります。
スポンサーサイト

神鉄粟生線の窮状(2)

  私が高校への通学に神戸電鉄を利用していたのは、1990-1993年の間。先に挙げたように、これは粟生線のピーク期です。ニュータウン世代がまだ働き盛り、そしてそのジュニア世代は通学に利用と、粟生線には最も追い風の吹いていた時代といえます。

  とはいえ当時、まだ昭和30年代製の旧式車(300系)、さらには創業期からの電車を改造した800系も健在で、特に私が乗っていた志染以西の区間に、この800系が押し込められていたため、かなりの確率で扇風機電車がやってくる状況でした。

2枚窓に愛嬌のあった300系。「観光列車」だった神戸電鉄を知る最後の世代
300kei

800系。晩年は粟生線末端が主な働き場だった
800kei

  そのあたりの話は、こちらで詳しく述べていますが、この800系利用の経験は、後の私の鉄道趣味にも少なからず影響を及ぼしています。

  鉄道ファンが有り難がって乗るのは大抵、レアな車両。こと旧式車両ほどノスタルジーを感じられ、それをわざわざ選んで乗りに行くものです。それが廃車にされるとなれば残念がり、別れを惜しんで数多くのファンが訪れます。一方、日常その車両を使う(使わざるを得ない)側の立場からすれば、同じ運賃でボロ車両に乗せられるという不満しかありません。

  近年、あちこちで列車の世代交代が行われています。私もファンとしては惜しむ側ですが、利用者サイドに立てばそれは歓迎すべき動きです。(入る新車が真にサービスアップになるものならば、の話ですが。)紀行作家の故宮脇俊三氏は、廃線間近の路線に乗りに行った際、満員の列車に辟易する地元学生を見て、こう書いています。

  「ローカル線は地元の人のもの。鉄道マニアのものではないのだ。」

  趣味人は、普段使いもしないでいて、惜しんだり、なぜなくすのかと文句を言ったり、趣味的観点ばかりで好き勝手に語ってしまいがちですが、廃止になるのはそれなりの理由があるからであり、この「地元の人」の観点は忘れてはならないな、と思う次第です。

  話を元に戻すと、300系や800系といった旧式車は、1994年までに新型車に置き換えられて姿を消しました。これにより、全車非冷房の電車は基本的になくなり、車両面で一応は近代化を果たした格好でした。また1991年以降、鈴蘭台~三木間で日中15分ヘッド運転(それまでは西鈴蘭台まで)が行われるようになり、利便性も向上しました。(もっとも、三木以西に通学していた私には恩恵がなく、相変わらず30分に一度の列車を待つ有様でした。)

1991年に登場した2000系。これにより800系の置き換えが進んだ
2000kei

  ただ、粟生線沿線のニュータウンはもともと、いわゆる「団塊世代」の受け皿という色が濃く、一気に開発が進んだぶん、世代の偏りが激しいものでした。従って、そこに依存する粟生線が、やがて下り坂に向かうことは必然の流れだったのです。

  しかし、その後重なる様々な要因により、その衰退は急速に進むことになります。

  (続く

神鉄粟生線の窮状(1)

kobeao1

  私の地元を走る神戸電鉄粟生線。数年前から利用者の減少が問題視されるようになりましたが、ここへきて、いよいよ抜き差しならない状況になってきたようです。

  →神戸電鉄サイト「粟生線活性化への取り組み」

  →神戸新聞11/20「路線維持へ、3市に追加支援要請」

  →神戸新聞11/27「利用減なら減便、値上げも検討」

  粟生線の輸送人員ピークは平成4年(1992)。ちょうど私が、高校通学に粟生線を利用していた時期です。現在の利用者は、その半数にまで落ち込んでいます。私も、高校卒業後は、めっきり利用しなくなりましたので、この減った半数のうちに数えられることになります。

  この背景となる要因については、語りだせば長い話になります。

  粟生線は当初、三木市にある広野ゴルフ場まで開通しました。今や電車でこの名門ゴルフ場に行く人はいないと思いますので、その当初の目的からは既に離れています。

  その後、三木、小野、そして粟生へと延伸し、神戸と東播磨を結ぶルートとしての開通をみました。以前は国鉄加古川線方面との連絡切符が発売されており、それなりにつながりがあったことが察せられます。

  神戸電鉄が隆盛を極めたのは1980年代、沿線のニュータウン開発が盛んに行われ、神戸のベッドタウンとして人口が膨れあがったことによってでした。88年、北神急行の開業に伴い、巨大な駅ビルとなった谷上駅は、絶頂にあった神鉄の象徴でした。当時は、特にラッシュ時の混雑が激しく、複線化や車両増などの輸送力強化がなされてゆきました。

tanigami

  しかし当時から既に、衰退の兆しはありました。粟生線を使って神戸へ通勤していた父に言わせれば、係員の怠慢が横行するなど、無駄の多い経営が目に付いたようです。そんな父も運転免許を取得し、90年頃から自動車通勤に切り替えて、電車の利用をやめてしまいました。

  神鉄の最大の弱点は、その運賃の高さにありました。急峻な勾配を数多く抱え、ランニングコストが高く付くうえに、なにもかもが「特別仕様」。加えて、ベッドタウンの通勤・通学客が主な利用者である性格上、ピーク時の片方向にだけ利用が集中し、そのために必要とされた設備投資が足かせとなりました。

  それだけでなく、神鉄から阪急・阪神・山陽電鉄への乗り換えをする場合、間に挟まる「神戸高速」の存在がネックとなりました。この鉄道が介在することで私鉄4社が接続されたわけですが、ここでいわば「通行税」が取られる格好になり、割高感を助長することになりました。

  当時においてまだ非冷房車も多く(冷房化100%達成は2009年)、接続する私鉄各社と比べても、水準的に見劣りが否めず、「遅い、高い、サービス悪い」の3拍子で語られていました。80年代~90年代前半、いうなれば神鉄は「仕方なく」利用されていたのです。

  (続く

晩秋の風景'08(2)

  今週は個人的にいろいろ多忙でした。一段落付いて、ちょっとほっとしているところです。

  引き続き、龍野の紅葉写真を紹介します。

tatuno5

  まさに深紅。秋から冬へと移りつつある空の色とのコントラストが秀逸。

tatuno6

  谷間にて。様々な色が折り重なる様もまた見事です。

tatuno7

  小径を覆う黄葉のトンネル。

tatuno8

  谷を出て、遊歩道沿いの大木を。

  恵まれた天候と相まって、満足度の高い散策でした。

  たつの市を南北に貫くように流れる揖保川。龍野公園は現在のたつの市街地西の対岸に位置します。

tatuno9

  うすくち醤油のトップブランドとして知られるヒガシマル醤油。工場が揖保川に面して立っています。だし入りの「ヒガシマルめんスープ」、我が家では汎用調味料として重宝しています。

晩秋の風景'08(1)

  カエデのことを「紅葉」と書いてもみじと呼びます。古来、春は「花」といえば桜を指すように、山を赤く染めあげるカエデは秋を代表する風物詩といえます。鮮やかさで目を引き、かつけばけばしくない。これもまた、日本人好みな風景です。

  昨年12月1日、兵庫たつのの龍野公園に行きました。時期としてはやや遅めですが、素晴らしい紅葉に巡り会うことができました。



tatuno1

  やぐらの白壁がもろに白飛びしているのが残念ですが、青空がとても爽やかです。ここから、その名も「紅葉谷」へと入って行きます。

tatuno2

  紅葉はやはり、こうして陽に透かすようにして見ると映えます。

tatuno3

  こちらは「黄葉」。谷間にスポット的に射す光も良い演出。

tatuno4

  見上げると、見事なグラデーション。いろんな角度から楽しめます。

  続く。

サウンド・オブ・トレイン

  鉄道旅行のサイトを開設して10年になりますが、この間に大きく変わったのが、「動画」を公開する環境です。

  このあたりの話は、ワイラインワークスのBLOGに任せたいと思いますが、これにより、従来表現しきれなかった、流れる「車窓」や「音」が容易に表現できるようになりました。

  1995年に、私はビデオカメラ(ハイエイト)を買いました。「カメラはフィルムのコマ数しか記録できないが、ビデオならテープの時間分、いろんなものを記録できる」。ある人がこんな事を言っていて、それがきっかけとなりました。なので、一眼レフ(フィルム時代のEOS Kiss)より前に、既にビデオカメラを持っていたのです。

  現在では、過去の分を含め、ビデオ映像はデジタル化し、動画編集もそのデータを使って行っています。この蓄積があるので、私の動画作品はほとんど自前で、著作権を気にせず公開できます(笑)。

  私の趣味に関していえば、ビデオを使うことにはもうひとつのメリットがありました。それは「音」を記録できる、という点です。

  あまり話題になることがありませんが、列車ならではの味は、「音」にこそあるのではないかと思います。線路の継ぎ目を踏む「タタン、タタン」という規則音。駅のポイントなどにさしかかると、それが一時乱れて、アクセントとなります。

  もう乗る機会はほとんどなくなってしまいましたが、夜行列車に乗っていると、目が覚めるのは大抵、列車が駅で停まっている時でした。あの規則音は、適度に眠りを誘うサウンドなのだと思います。

  そこに、電車ならモーター、気動車ならエンジンの音が重なります。この音も、古い車両ならアナログ的、新しければメカニカルで、それぞれの味わいがあります。非力な旧式ディーゼル車が上り坂にさしかかると、エンジンは頑張って回っているのに、スピードは一向に上がらないというギャップが面白く、思わず応援したくなります。

  かつてビデオで撮ったものの中には、すでに廃車になった車両もあります。ですから、もう実物は二度と聞くことのできないサウンドもあります。写真で姿を残すのは比較的容易ですが、その場の「空気」に近いものを保存できるのは、音を伴う映像ならではです。最近では特に、この「記録」という面を意識して撮影する機会も増えています。

  たとえばこれ。昨年9月に撮影したものですが、この車両はその11月に引退しました。動画はほぼひたすら、車内からの映像をまとめたものです。



  こういうのは、自己満足の意味合いが強い記録だと思います。結局のところ、これは自分自身の実体験があってこそ意味を帯びるものであり、人に見せるためというよりは、自分が振り返るための作品に思えるからです。とはいえ、たとえばこの路線を毎日利用していた人が、動画を見て懐かしむこともあるかもしれません。それはまさに、「音」と一体になった、列車の思い出なのです。

写真革命

  先日(約1週間前)、東京にいる妹に娘が生まれました。両親にとっては初孫、私にとっては姪にあたります。

  生まれた当日に早速、写メールで写真が届きました。数日後には目の開いた写真が来て、「もう整った顔をしている」とは父談。我が家ではプリントアウトして壁に貼ってあります。ラブリーです ←絵文字はこのBLOGを始めて以来初めて使いました。

  というわけで今、母が世話のために東京入りしているのですが、写メールが届いた後、我が家のアルバムを見る機会がありました。プライベートな部分はさておきますが(笑)、気づいたことがひとつ。

  両親は九州出身で、どちらも高卒後関西に来ています。そのころ(昭和40年代後半)の写真はまだ白黒メイン。たまにカラーがありますが、かなり退色した感じです。もともと、さほど良い発色ではなかったのかもしれません。

  私が生まれたのが昭和50年(1975年)ですが、このころになるとほぼカラー写真ばかりになります。当時は、フィルムも現像料もかなり高かったそうですが、その割には結構な枚数が残っています。第一子ということで、張り切って撮ったのでしょう(笑)。ただやはり、あまり色はよくありません。

  その後、妹、弟と生まれて1980年代に。このころになると写真の発色は格段に良くなっています。つまり、それまでの10年ほどの間に、写真の技術は大幅に進歩したことになります。特に、モノクロからカラーへの変化に勝るインパクトは、なかったのではないかと思います。

  70年代のそれを第一次写真革命と呼ぶとすれば、この2000年代の変化は第二次写真革命といえるでしょう。ひとくちにいえば、アナログからデジタルへの変化。

  出始めのデジタルカメラは、テレビの画面を写真に撮ったような粗さでしたが、今や携帯電話のカメラでも、L版プリントくらいは余裕でできるレベルに達しています。

  「十年の旅百景」は、デジタルカメラの進歩の歴史でもあります。

10th024

  「百景」の中では、↑写真が、デジタル第一号。2002年の正月です。

10th073

  そして↑が、フィルムで撮影した最後の写真。2007年1月。実質この5年間で、私の写真は、アナログからデジタルへ移行したことになります。デジカメの性能が向上したせいもありますが、ウェブサイトでの公開など、デジタル媒体に向いているのはやはりデジタルデータであり、こうした用途が増えたこともその一因です。

  そしてデジタル化による最大の変化は、画像が瞬時にやりとりできるということでしょう。東京で生まれた子どもの姿を、その日のうちに兵庫で見られるとは、以前なら考えられなかったことです。

  昔より気軽に写真や動画が残せるようになり、妹夫婦もきっと、張り切って子どもの成長を記録してゆくことでしょう。

「道」のロマン

  私の趣味の「本業」は、見ての通り鉄道なのですが、実は「鉄」ではない「道」にも、昔から結構興味があったりします。実際、時刻表なみに見るのが好きなのが地図で、車の中で人を待つときなど、道路地図をそこはかとなく眺めていれば時間がつぶせます。

  また、車でいろんな道を走ってみるのが好きで、行きと帰りでは必ず道を変える主義。地図を見て、ここは通れそうだと思うと、マイナーな脇道に入ってみたりもします。そしてその道がとんでもないシロモノだったりすることも・・・

  ウェブサイトを見ていて、「酷道」という言葉を見つけました。「国道」と「酷な道」をかけたもので、「国の道なのだから立派なはずだ」という観念を吹き飛ばしてくれるようなヒドイ道。→Wikipedia「酷道」

  たとえば、国道157号。金沢と岐阜を結び、100番台という比較的若番というところからは、まともな主要道路をイメージしますが、とある区間には、

  『落ちたら死ぬ!!』

  という、なんとも物騒な看板が立ってるんだそうです。その区間は断崖絶壁。そもそもそんなところに、どうして道を造ったのか・・

R447

  鹿児島~宮崎県を走る国道447号。県境ではこんな1車線の山道。(国道も400番台ともなると、県道あがりの地方道なので、このくらいはザラです。)車など来るまいと油断して、下り坂で勢いがついていたところで、危うく対向車と正面衝突しかけました。「落ちたら死ぬ」ような悪路ではなくても、こんなかたちで命の危険が伴います。

  今でこそ、大抵の障害はトンネルや橋などで乗り越えてしまいますが、昔の拙い技術で天然の要害に挑み、何とかかんとか克服しようとした努力の跡がかいま見えるところに、なんとなくロマンを感じたりします。「酷道」が人の心を捉える理由の一つは、そんなところにあるのでしょう。

  ちなみに、道マニアの世界では、国道の逆三角形の標識のことを「おにぎり」、県道の六角形のは「ヘキサ」と呼ぶそうです。

晩秋の風景'05

  ここ数日は、気候の変動のためか、あまり体調がよくありません。もともと、文章を作るのに考え込んでしまうほうなので、こうなるとなかなかネタが浮かびません。過去の写真で水増しという作戦も、ここのところ多用しているので、あまり頼りたくはないのですが、長く間を空けるとますます遠のくので、安直ながらご容赦願います。

  今回は、2005年11月21日の砥峰高原。以前の記事で、06年10月の同じ砥峰高原の写真を紹介しましたが、こちらは時期としてはちょうど1ヶ月後となります。もう見頃は過ぎ、広大なすすき野原には人けがありません。

tonomine11

  足下には霜柱ができていました。冬の冷え込みはきついのでしょう。

tonomine12

  俯瞰すると、なかなか壮観です。

tonomine13  tonomine14

  まさに枯れ野原。でもこれはこれで、味があるのでは。

晩秋の風景'04

  引き続き、過去に撮影した紅葉風景を紹介します。最近は過去の写真で記事の嵩を水増ししている感がありますが(苦笑)、仕事用サイトブログのほうにも手がかかっている状況ゆえ、ご容赦いただきたく。

  約5年前の2004年11月、加古川を上流へ向かい、柏原町(現丹波市)などを巡りました。この年の台風23号は兵庫県内の各所に洪水をもたらし、それよりひとつきを経てなお、河原には大量の漂着物が残った状態でした。

  しかし天候のほうは良好で、晩秋の深い青空に紅葉が映えていました。フィルムカメラでの撮影で、最近のデジカメ写真より不利な条件にもかかわらず、遜色ないできばえとなっています。これはひとえに、被写体の勝利です(笑)

041123-1

  柏原町の国道176号沿い(※)の谷間に位置する「鐘ヶ坂公園」。規模はさほど大きくないものの、紅葉の美しい谷でした。

041123-2 041123-3

041123-4

  ※:訪問後の2005年、新鐘ヶ坂トンネルの開通により、当時の176号は旧道となり、2008年に閉鎖されたとのこと。

  帰りに、黒田庄町(現西脇市)の加古川を橋の上から。

041123-5

  普段は何気ない川の風景が、夕日の効果で幻想的なシーンに。

紅葉@摩耶山

  今年は全般に暖かい秋ですが、冷え込みもあって、そこそこの紅葉となっているようです。

  昨年の秋に、神戸・摩耶山で撮った紅葉の写真を紹介します。引退間近の0系新幹線に乗り、その帰りに立ち寄ったものですが、好天に恵まれ、鮮やかな色が出てくれました。

maya1 maya2

maya3 maya4

静寂・秘境の村

  北近畿から山陰を辿ってきたドライブも、国道9号に合流し、鳥取から国道53号を南下してゆくと、もう日が傾き、大詰めの雰囲気となってきました。

tottori1

  西日に照らされ、輝くすすき野原。これから先は日没との競争です。

  今日最後の目的地となるのは、智頭町の山奥に位置する板井原集落。地図で見ると、県道40号が川に沿って集落を目指しています。というわけで北側から入って行きます。が・・

  これが、2桁の県道とは思えない心許ない道路。途中民家はほとんどなく、谷底を、車1台やっとの細々とした道路が延々と続きます。山の陰で日が射さなくなってきたので、なおさらうら寂しい雰囲気となります。それでもせっかくなので、ほのかに色づいた渓流の木々をカメラに収めながら進んで行きます。

tottori2 tottori3

  もう光量が少ないので、ブレ・ボケが出て厳しい状況です。

  一体どこまで続くのか、と思えた先に、唐突に現れた駐車場。これが板井原集落の入り口と思われますが、この周りも山の中。そこから看板に従って少し進むと、ようやくその集落が姿を現しました。

  ここはまさに「秘境」。これまで辿ってきた道のりからなおさらそう感じられますが、集落内は車が入れないらしく(ただし近くを林道が通っている)、昔ながらのたたずまいを残しています。今は智頭へのトンネル道があって、人々の生活拠点も町に移り、集落を残しているのは「保全」のためという意味合いが強いようですが、それだけに昔の山村の風情を残す貴重な存在です。

tottori4 tottori5

  残念ながら今回は時間がなく、ざっと見渡して引き返しますが、いつかまたじっくり見て回りたい場所です。

  車1台分の狭い幅のトンネルをくぐり、智頭の町へ向けて山道を下って行きます。このトンネルがなかった時代は、本当に「秘境」だったのだろうと思います。しかし、山陰に点在する漁村にせよ、こうした山村にせよ、道路の整備がかえって淘汰を招いているわけで、「ストロー効果」を肌で感じます。

  智頭から佐用へ抜け、中国道で一気に家路へ。途中で岡山県も一部通過したため、今回は計1府3県にまたがるドライブとなりました。

荒波・日本海

  余部鉄橋での撮影を終え、さらに西を目指します。秋の日は短く、昼を過ぎるともう、時間との闘いという雰囲気になってきます。

  過去数回訪れている浜坂。現在では合併により「新温泉町」を名乗りますが、今後何十年も「新~」を名乗るのかと思うと、どうにも違和感を覚える地名です。

  そんな浜坂は素通りし、諸寄でこの1枚。

sanin11

  兵庫県最西端となる居組にかけて、再び海岸風景が続きます。

sanin12

  ここから、鳥取県の東浜にかけての県境の区間は、つづら折りが続く難関でしたが、今では内陸をトンネルでぶち抜く新道ができています。山陰の道を初めて走ったのは十数年前、家族で鳥取砂丘から香住を訪ねたときのことです。そのころの道路は、集落内は生活道路のような狭い道、それ以外はくねった悪路の連続だった記憶がありますが、今や難しい区間はほとんどが走りやすい道に整備されています。山陰本線の非電化区間(城崎温泉~鳥取方面)が衰退した大きな原因が分かった気がします。これは列車の窓からはなかなか気が付かない点です。

  トンネルで一気に鳥取県入りし、東浜の裏の高台へと出て行きます。ここは、海と線路の見渡せる場所。光の向きがあまりよくありませんが、せっかくなので列車を撮っておきます。

sanin15

  浜へ出て海を見る。これまでは入り江が多かったためか、さほど感じなかったのですが、やはり日本海の波は激しい。この穏やかな日和でも、次から次へ打ち寄せてきます。

sanin14

sanin13

  海岸近くを走るのはここまでで、長きにわたる今回の充実した山陰海岸巡りも、これで終わりとなります。

  なお、これまで辿ってきた、京都~兵庫~鳥取の山陰海岸は現在、ユネスコの関わる「世界ジオパーク」ネットワークへの認定を目指しているとのこと。これは、地質学的に価値があり、研究・保護が行われていると認められた場所で、2009年に洞爺湖有珠山、糸魚川、島原半島が認定を受けています。特に地域が地質遺産の研究や活用に熱心であることが重視されるようで、このたび国内の候補地として選ばれました。審査が通れば、来年夏にも認定を受けることになります。

sanin16

  余部付近の海岸。地域で連携して、こうした地形が「資源」として活用されるなら、望ましいことです。

  →「山陰海岸ジオパーク」サイト / 神戸新聞記事

SL、鉄道なき島へ

  以前にこのブログで話題にした、鳥取・大山口駅のSL(D51)。大山町が引き取り手を募集しており、その後が気になっていたのですが、結局自己負担となる輸送料がネックとなって現状での引き受け先はなく、解体が決まったようです。

  しかし、隠岐島の建設会社が、その一部を引き取ることになり、車輪や車軸などの寄贈をうけることになりました。 →日本海新聞より

  現状での維持ができなかったのは残念ですが、鉄道のない島に渡って、大切に扱われることを願いたいものです。

惜別・余部鉄橋

  ここからしばらくは「撮り鉄」モードです。

  香住駅西の矢田川橋梁で、下りの特急「はまかぜ1号」を待ち受けます。朝に竹田で撮影した「はまかぜ2号」とは神戸あたりですれちがっている列車です。待ち時間の間に昼食を済ませておきます。家から持参の弁当。徹底的な経費節減で、行き先には何ら経済効果をもたらさない、イヤな客です(苦笑)。
  
  そうこうするうちに、「はまかぜ」がやってきました。前面には光があたらず、ちょっと残念な出来ですが、撮影できる列車が限られているので、致し方ないところです。

hamakaze_kasumi

  これより急ぎ国道178号を辿り、余部へ。こちらも昨年大晦日以来ですが、新鉄橋の工事が更に進み、4基のクレーンがせっせと作業をしています。

amarube1

  ここで、「はまかぜ4号」の通過を待ちます。さきほどの「1号」が浜坂から折り返してきます。汽笛を鳴らし、今にも止まりそうなスピードで鉄橋にさしかかります。

amarube0

  来秋架け替え予定の余部鉄橋。列車が通る姿を見られるのは、今度こそ最後かもしれません。

amarube2

  足下から見る鉄橋。現鉄橋の南側に並行して、コンクリート製の新鉄橋の工事が進められています。橋脚から橋桁を伸ばし、近いうちに連結されそうです。

amarube3

  南側から見ると、橋桁はもうかなり姿を現し、新橋梁のかたちが明確になってきました。それにしても・・目の前で「さようなら、ありがとう」と言われていては、新鉄橋は立場がありません(笑)

  さて、今回の撮影分を含めて、ここ半年撮りためた「はまかぜ」の走行シーンを動画にまとめました。YouTubeにて公開しています。


FC2Ad