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トラベラーズ ノート まくら木日記

日記・雑記・駅々めぐり。

今年最後のまくら木日記

  2009年もあと1時間半。本家サイトの方は、いちはやく2010年仕様に切り替えました。どこが2010年仕様か・・トップページの一番下をご覧頂ければ。

  振り返れば、やはり反省ばかりが残る1年でしたが、何より年々体感速度の上がる時の流れが恐ろしくなります。だからこそ、1日、1週間、1ヶ月、そして1年というスパンで、なにか1つずつでも成し遂げてゆきたい、そんなことを思う大晦日です。

  来年もどうぞ、よろしくお願い申し上げます。
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年末 丹後の旅(1・舞鶴)

  2009年もついに最後。寒波襲来で、えらく寒い大晦日になってしまい、固まって過ごしています。

  遡って昨年の大晦日には、友人らと鳥取方面への旅行に出かけましたが、今年は昨日12月30日に、同じメンバーで出かけてきました。このたびは鉄道は使わず、ドライブで、丹後半島の方面を目指します。天気は下り坂という予報でしたが、北部大荒れの予報が出ていた翌日(すなわち今日)よりはましかということで、早めに出発しました。

  まずは舞鶴若桜道を北上、舞鶴市へ向かいました。10日ほど前の寒波の名残か、駐車場の端などには雪の山が残っています。訪れたのは、舞鶴市街地の中にある、田辺城跡。

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  もとは細川藤孝が築き、関ヶ原の戦いの前には西軍に囲まれるという戦いの舞台になったものの、維新まで存続。ただし、往時のまま残るものはほとんどなく、再建されたやぐらや城門を除けば、普通の公園っぽい。

城門の上部は資料館。ただし年末につき休館。
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  奥の庭園には、一羽だけ池で泳ぐ鴨の姿。

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  公園の裏には、JR舞鶴線の線路が走っています。

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  <続く

今日の1枚(+α)

  今日は冬晴れのよい天気でした。昼から明石方面へ行き、そのさいに新幹線の写真をいくらか撮影しました。

  今日の1枚は、500系の「こだま」号。

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  空に現れた月を交えて。高速で走り抜ける新幹線をサイドから、タイミング良くとらえるのは至難の業。いちかばちかでやってみましたが、先端が少し行きすぎてしまいました。トリミングで一応それっぽく。

  ちなみにこの月が、ちょうど年越しの夜に満月になり、1月1日の早朝には月食が起きるとのこと。ほんの一部分が欠ける程度ですが、日本で正月に月食となるのは、太陽暦が採用されて以来初めてのことだそうです。

  さて、このあと、来春に姿を消す500系の「のぞみ」を撮影したのですが・・

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  大本命がこの致命的なミス。大して難しい構図ではなかったのですが、ぎりぎりまで引き寄せようとして、タイミングを誤りました。あまりにも悔しいので、ネタとして掲載します(苦笑)

駅#083 彦根駅

ひこね:JR東海道本線/近江鉄道本線

  「冬の駅特集」ということで、冬らしい駅の風景を取り上げてゆきたいと思います。

  滋賀東部の主要都市、彦根城のお膝元。徳川家康の忠臣で、彦根藩の初代藩主となった井伊直政の像が駅前に建ちます。

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  橋上のJR駅からは、彦根城が望まれます。伊吹山に面する琵琶湖東部は、近畿の中でも特に雪の積もりやすい地域。この日(2008年1月2日)も一帯が雪化粧していました。

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  彦根といえば、ご当地ゆるキャラの代表格、「ひこにゃん」が有名。「赤鬼」と恐れられた直政のトレードマークだった赤備えのかぶとと、デフォルメ化された白猫(これは、2代藩主直孝にまつわる招き猫伝説に由来するとのこと)のギャップの妙が勝因でしょう。

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  JR駅は、上り下り各1面ずつのホームで、駅の規模としてはさほど大きくありません。東海道本線と北陸本線のジャンクションで、新幹線駅でもある米原が隣にあるためでしょう。しかし、国鉄末期の一時期は、ここ彦根が新快速の折り返し駅でした。これは国鉄時代、米原駅が名古屋鉄道局の管轄で、乗り入れができなかったためとされています。米原がJR西日本管轄となった民営化後には、新快速は米原へ足を伸ばし、長浜、さらには福井県の敦賀へと延伸しています。

  このJR駅に併設されているのが、近江鉄道の彦根駅です。車両基地が併設された事実上の拠点駅で、さまざまな車両の姿を見ることができます。米原まではJR線の南側を少し離れて並走します。

使われてなさげなものを含め、カラフルな車両たちが連なる
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冬至の翌日

  今日は昼から、部屋のワックスがけなど、掃除と片づけに追われていました。部屋から一度放り出したものを運び込んだところで、今自分の周囲はえらいことになっていますが、気分転換を兼ねてBLOGを書いています。

  さて、今年の冬至は、昨日12月22日でした。従って今日から先は、「昼」が次第に長くなってゆきます。もっとも、日没に限って言えば、最も早いのは12月上旬で、神戸では12月2-8日の16:48をピークに、それ以後は遅くなってゆきます。(本日は16:53。)一方、日の出は本日の7:03から引き続き遅くなり、1月3-13日の7:07が最も遅い日の出となります。

  上記データは国立天文台 天文情報センターのサイトで調べました。

  さて、人間の体というのはやはり、日光を浴びなければならないものらしく、こうして日が短く弱くなることが、人によって鬱の症状を引き起こすようです。

  聞いた話ですが、街から山間部に移ると、やはり鬱になってしまう人がいるそうです。原因は、地形的な閉塞感と日照の短さ。山に囲まれているために「空が狭い」状態に気が滅入ってしまうようです。

  なので、この時期に調子を崩す原因となるのは、気候の変化だけでなく、日照の少なさという面もあるのでしょう。私も以前から、12月は調子の悪い時期でしたが、そのことを考え合わせると合点がいきます。

  この時期といえばもうひとつ、世間ではクリスマスという行事があります。日本を含め、縁もゆかりもない地域でも祭られていますが、その由来のひとつは、冬至のお祭りだったといわれます。

  太陽の神様が弱くなっている、励まさねば、というわけでお祭りをすると、そこからまただんだんと強くなって、やれやれと。暦のサイクルに神様のスケジュールをはめ込んだだけの話で、滑稽ではありますが、日本より冬の日が弱い欧州(※)における、陽光への強い願望の表れだったのでしょう。そしてこれは北半球共通の現象なので、その祭りも広く違和感なく受け入れられているのではないでしょうか。

  ※ 緯度でいえば、欧州のほとんどが東京より北に位置し、アテネが仙台、ローマが函館と同程度、パリやロンドンは稚内より北になります。例えば上記 国立天文台サイトでロンドンを調べると、今日は日の出8:05で日没15:55。神戸より「昼」が2時間も短いことになります。

  また、年末・年始はイルミネーションイベントの多い時期でもあります。これも、同じ願望に基づくものと思われます。

仙台の「光のページェント」
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  なにはともあれ、これからは次第に日が長くなってゆき、強さも増してゆくなかで、気分も晴れてゆくのでしょう。・・そうだといいのですが。

カレンダー壁紙を作ってみた

  2009年も残りわずかになったところで、このたび新企画として、2010年1月分より「カレンダー壁紙」を作成することにしました。

  実はかつて、2004年にもサイト内で、壁紙サイズのカレンダーを公開した時期がありました。今回はこのBLOGにて、順次公開してゆきたいと考えています。

4:3サイズ(1024×768px)
cal1001

16:10サイズ(1280×800px)
cal1001w

  一応、デスクトップの壁紙として使えるサイズにしています。が、あくまでも自分用に作っているものを公開しているにすぎないので、自己満足の領域のものです(苦笑)。※今後修正があるかもしれません。

  今回の写真は、伊吹山の麓を走る新幹線の図。東海道本線近江長岡駅の付近にて。天気があまりよくありませんが、これだけ山が見えただけよしとすべし、です。

年末に向けて

  やはり寒くなってきました。既に体が冬眠モードに入り、身動きがとれません。日の短さと相まって、作業効率が非常に悪くなります。

  そんな私に言わせれば、どうしてよりによってこんな時期に、大掃除だなんだと、世間は忙しくなるのかと思えてきます。ただ幸い(?)我が家では、「年越しだから」といって、そうたいそうなことはしません。もともと父の勤務がきっちり正月に休むような体系でなかったこともあって、そこらは割と緩い感覚です。

  そうは言っても、やはりそれなりに1年のけじめはつけねばならないので、今はぼちぼち部屋の掃除にでもとりかかろうかとしています。それとともに、パソコンのデータを一度すっきりさせようかとも考えています。特に最近は写真の枚数が増えて、データ量が半端ないことになっており、きっちり体系化しないと、探すときの効率が非常に悪くなるので、何か良い方法がないかと思案中です。

  ・・などと書けば、ずいぶん几帳面な人間に思えるかも知れませんが、実のところ片づけはうまくありません。早い話、器用ではないので、ためこんでしまうのです。でも、後回しにするときりがないので、今年中にはなんとか・・と考え出すと、やはりせわしない師走となります。返す返すも、だれがこんな時期を12月に決めたのか、と恨めしくなります(苦笑)。

冬将軍襲来?

  12月に入っても比較的暖かな日々が続いていましたが、ここ数日、冬らしい寒さになってきました。そして今週後半は、本格的な寒波の到来となりそうです。雪不足で閑古鳥なスキー場には朗報でしょうが、寒さに弱い当方は戦々恐々です。

  もっとも、この冬も暖冬傾向といわれる中で、この寒波がいつまで続くかはわかりません。ただ、暖冬といわれても、シーズン中一時的に急な寒さになる場合があり、その急激な温度変化こそが最も怖かったりします。

  さて、遡って2005-06年は、近年希に見る豪雪の冬でした。滅多に雪の積もらなくなった地元でも、この冬は久々に、積雪がみられました。

  写真は2005年12月22日。ちょうど午前中に雪が降りしきり、あっというまに5cmほどの積雪となりました。

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  雪を巻き上げる神鉄の電車というのは、あまりお目にかかれない光景です。背後の県道では、車がノロノロ運転で渋滞していました。

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  庭の木々もこの姿。しかし、雪がやむと儚く解けてゆきます。

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  急ごしらえの雪だるま。我ながら幼稚やな~と思います(苦笑) 周囲の道路の雪は程なく解けてゆきましたが、この雪だるまはしばらく残っていました。

  さてこの冬は、雪を見ることは果たしてあるのか・・?

寝台特急「日本海」

  先日大阪で撮ってきた写真を、もう少し紹介します。大阪駅から出発する、寝台特急「日本海」です。

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  かつて大阪は寝台・夜行列車の一大発着地で、朝の時間帯には各地からひっきりなしに入ってきて、小学生だった自分はそれを追いかけ回していたものです。しかし今や、機関車に牽引されるタイプの、いわゆる「ブルートレイン」として毎日運転されるのは、この「日本海」1本だけ。ここまで衰退してしまうとは。

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  紺色の車体に、テールマーク。絵が少しずれているのがご愛嬌。昔は同じ車両を様々な列車に使い回しており、いろんな絵柄を見るのが楽しみであったわけですが、こういう姿そのものが貴重なものとなってしまいました。

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  旅情をそそる「青森行き」の表示。大阪を17:47に発ち、文字通り日本海沿いを辿って、青森着は翌8:34。かつて「日本海」は2往復あり、うち1往復は青函トンネルをくぐって函館にまで達していました。やはりもう、(それ自体が観光のための列車である「トワイライトエクスプレス」を除いて)北海道は飛行機で行くものという時代なのでしょう。

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  夜行列車伝統の「折り戸」。これがプシュー、パタンと開くと、出迎えを受けたようで胸が高鳴るものでした。しかし広くない出入り口と、足下のステップは、荷物の多い遠距離客に優しいものではなく、こうしたあたりにも設備の古さを感じざるを得ません。

  東京~北陸を結んでいる寝台特急「北陸」と夜行急行「能登」の、来春での廃止が報じられました。国鉄時代からの旧式車で運転される、これら夜行列車の寿命は限界に達しつつあると思われ、「日本海」も予断を許しません。それを知ってか、この日は5人ほどの撮影者が訪れていました。しかし、ホーム向かいにできた新快速待ちの長蛇の列をよそに、「日本海」側は閑散としており、乗り込んだ人もわずか。客車は、最晩年の「なは・あかつき」と比べるとまだきれいなものですが、いつ廃止の声がかかってもおかしくない雰囲気でした。

神戸の夜景

  先日、神戸・大阪方面へ出かけてきたとき、ハーバーランドにて撮影してきました。この海との組み合わせこそ、神戸の夜景を引き立てていると感じられます。

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  今は神戸ルミナリエ開催中(明日14日まで)で、旧居留地あたりでは大勢の行列を目にしました。

  以下、私の主観。

  ルミナリエは、引き際を逸したのではないかというのが、私の印象です。「鎮魂・追悼」を謳っているばかりに、やめれば「風化」といわれるし、普通のイベントのように「資金難なのでやめます」とも言いにくく、かといって露骨に商業主義に走るわけにもゆかない。もとがある種の‘善意’を基盤としたイベントであるだけに、その部分が形骸化しているとすれば不幸なことです。結果論になりますが、当初から年数を決め、期限付きのイベントとして行えばよかったのではないかと思います。

駅#082 汐見橋駅

しおみばし:南海高野線

  このBLOGはもともと、旅先で立ち寄った駅を紹介するものでしたが、ここ1年以上、駅を扱うことはありませんでした。今回は、さる12月9日に立ち寄った大阪の汐見橋駅を取り上げます。(今後はこういう感じで、気まぐれに駅を扱ってゆきたいと思います。)

  汐見橋駅は、大阪の都市部、難波の西1km弱の場所にあり、すぐそばを阪神高速の高架と、新なにわ筋が通っています。そして、南海電鉄の2大路線のひとつである、高野線の起点。こう書けば、都会の中のターミナルをイメージするでしょう。ところが・・

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  入り口は手前の真新しい地下道・・ではなく、その奥の古びたコンクリート建築。ビルが建ち並ぶ中、ここだけ時代に取り残された空間となっています。ちなみに手前は、この春開業した阪神なんば線の桜川駅への入り口です。目と鼻の先ですが、お互いに接続駅とはみなしていない感じです。

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  薄暗い、がらんとした駅舎。改札の上には、南海沿線の大きな案内図が張り出してあるのですが、ずいぶんと年季の入ったものです。「これは昭和30年代時点のものなので、今のことは係員に聞くように」との旨が書いてあります。真ん中の辺りは破れかかっており、これも味と考えているのか、撤去の手間すら惜しんでいるのか分かりませんが、「生ける廃墟」という雰囲気です。

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  窓口部分も、昔のままのたたずまい。古い映画館などがこんな雰囲気でしたね。掲示物や自動券売機などが浮いて見えます。

  籍の上では高野線の起点となっているこの駅ですが、本線と高野線の交わる岸里玉出までの区間が実質的な支線(通称:汐見橋線)であり、終日ワンマン電車のピストン運転が行われています。(それでも線路は複線。現状では完全に持て余しています。)

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  これが、発車の時刻表。この町中にあってなんと、6時台から19時台まで、きれいに30分おきのパターンです。平日も休日も、ラッシュも全くお構いなし。ひたすらマイペースなダイヤに、この線の性格が表れています。

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  ホームは島式で、線路は2本ですが、なにぶん30分おきなので、実は2本も要りません。右側の1番線は、2番線と比べて線路のサビが濃く、あまり使われていない模様ですが、私がいたときに入ってきた列車は1番線に着きました。

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  汐見橋駅で乗り込んだのは、総勢15人ほどというところでしょうか。車のひっきりなしに行き交う中にあって、まさに忙中閑あり、都会のローカル線の風情です。

今日の一枚

  近所にて撮影。

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  夕日にシルエットをなす列車を狙いましたが、ドンピシャのタイミング。我ながらほれぼれします(笑)

  ただ、BLOGの最近の流れからすると、「粟生線の斜陽化」を象徴するような絵柄にも見えます(-o-;

神鉄粟生線の窮状(6)

  00年代後半に入ると、全国各地で地方私鉄・第三セクター路線の廃止・縮小が目立つようになりました。

  これは、輸送実態の変化とともに、自治体の姿勢の変化も関係しています。それまで自治体が「経営破綻」するなど考えられないことでしたが、それが現実に起きうる状況になってきました。必要度にかかわらず何でも手厚く保護できる時代は終わり、すべてを厳しい目で取捨選択しなければならなくなりました。

  それを象徴づけるのが、2008年春に廃止された第三セクター・三木鉄道の存廃問題の顛末でした。もともと、旧国鉄から分離された三セク路線は、採算が取れないから切り離されたのであり、大抵は補助金の切り崩しと自治体からの持ち出しで、かろうじて運営しているものです。こと三木鉄道の場合は、既に交通機関としての存在意義は薄く、惰性で存続してきた面があります。

  2006年1月に三木市長選が行われ、新人の藪本吉秀氏が、市の財政改革などを訴えて立候補。その公約の一つに三木鉄道の廃止が挙がっていました。一方現職側は、DMV(線路・道路両用の車両)の導入を検討するなど、三木鉄道を存続させて行く姿勢でした。いわば三木鉄道は、慣例主義と実効性のどちらを選ぶかの叩き台とされたのです。

  結果は、新人が現職をダブルスコアで破っての当選。ここに、ひとつの民意が示された格好となり、その後急速に廃止に向けた手順が踏まれてゆくことになりました。廃止には県や加古川市の合意も必要でしたが、こちらもすんなりと通り、2007年5月に廃止が決定しました。

廃止直前の三木鉄道
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  かつて80年代の国鉄赤字路線廃止問題のさいには、ほとんどの地域で反対運動が行われたようです。地域に鉄道があることがひとつのステータスで、それがなくなるのは街の衰退を意味するという危機感があったのです。しかし今や、鉄道は交通手段の一選択肢に過ぎず、自治体もそこに固執することはありません。

  利用者の少なくなった乗り物を、その少ない利用者の益のために守るのか、使わない大多数の益のために廃するのか。以前なら前者の論理が優勢でしたが、どこにも‘余力’のなくなった今、趨勢は後者に傾きつつあります。

  さて、神戸電鉄も粟生線の窮状に面して、「『企業努力だけでは維持が困難』とし、神戸、三木、小野の沿線3市などに運営面などへ追加支援を求めている」と、先日の神戸新聞にありました。ここまで書いてきたように、粟生線の衰退には事業者の自助努力の範囲を超えた大きなうねりが関わっており、その要請は致し方のないところでしょう。しかし、自治体もまた、二つ返事で応じられる立場にはないでしょう。こと三木市は、三木鉄道を切った「実績」があり、この場においても慎重な吟味をすると思われます。(三木市は来年1月に再び市長選挙を控えており、この点が争点のひとつになるかもしれません。)

  神戸電鉄は、「収支改善のために朝夕のラッシュ時を除いた時間帯の減便や運賃の値上げも検討せざるを得ない」とも表明しています。

  私個人の考えとしては、減便は妥当と思います。実際、1991年までは粟生線のほとんどの区間で日中30分間隔だったわけで、本数を倍増したのに利用が半減している(単純化した計算ですが)という現状を鑑みれば、どこかで折り合いをつけなければ、マイナスがどんどん膨れるばかりでしょう。

  また、日中の列車の車両を減らすことも考えるべきかもしれません。2両編成を構成して、志染以西は日中折り返し運転させる。かつての3両編成閉じ込めに戻る格好になりますが、これも致し方ないでしょう。それ用の編成を用立てる手間がかかるとはいえ、車両を減らせば維持費、電気代、保線などの長期的なランニングコスト(これが実際には神鉄の経営を圧迫していると思われる)を下げられるでしょう。

  可能なら、現在ラッシュ時に運転されている「快速」を日中コンスタントに運転できないかと思います。快速バスに対抗するにはやはり、心理的な距離感を少しでも縮める必要があると思えるからです。

09年3月改正で復活した、ラッシュ時の粟生線「快速」
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  やってはならないのは、運賃の値上げ。諸般の事情からのやむない価格設定だとはいえ、この割高感こそ今でさえ客足を遠のけている主因であり、それをさらに上げるとなれば、旧国鉄末期のような負の連鎖に陥ることは目に見えています。むしろ、遠距離ほど得になるような、フリー切符の類の通年販売などを求めたいところです。(このあたりは、山陽電鉄が充実しています。)

  あとはあのあか抜けないサイトがなんとかならないものかと・・

  今の社会情勢を見るに、(これは神鉄に限らず)生き残るには「レベルを落とす勇気と技術」が求められている気がします。一度「良い時代」を味わった者には、非常に難しい場合がありますが、それができるかどうかが命運を分けるのではないでしょうか。

  (このシリーズ終わり)

神鉄粟生線の窮状(5)

  神戸電鉄の、こと粟生線利用者が大幅に減少した背景には、これまで挙げたベッドタウン路線ゆえの年代層の偏り、震災を機にした流動の変化、バス網の発達などの要因に加えて、やはり車社会の進展が大きく作用しています。

  ニュータウン開発が進んだ70-80年代はまだ、マイカーが高嶺の花だった時代。必然的に行動範囲は限られ、普段は地元の小さなスーパーで済ませ、大きな買い物は電車で神戸へ出て、というのが一般的なスタイルでした。

  やがて自動車が普及し、一家に一台、そして一人一台に。私もまさにそうでしたが、通学客として電車に乗っていた世代は、卒業と共に運転免許を取得して、電車利用も「卒業」してしまうのです。

  こうした流れになると、社会もそれに沿ったものとなってゆきます。1997年には山陽自動車道が全通して三木や小野はその沿線となり、自動車で直接大阪や姫路方面へ出やすくなりました。また、ロードサイド型の大型店舗が進出し、そこに乗り付ければ大抵の買い物は事足りる状況になりました。こうなるともう、列車に乗る意義はなくなってしまいます。

国道175号沿いに対峙する大型家電量販店
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  もっとも、こうした動きは今、どこの地方ローカル線でも見られる現象ですが、粟生線の場合は沿線人口が比較的多く、列車本数も確保されていながらその波に呑まれてしまいました。この点をひとつ、歴史的観点から考察してみたいと思います。

  私が各地を旅行して感じることですが、地域の文化圏は大抵、昔の「国」の単位で形成されているものです。方言から家のたたずまい、風土、そして人の流動。こうしたものは基本的に、明治以前の「国」の中でまとまっており、その境界を越えると、空気の変化を感じられます。

  移動手段の限られていた時代に何百年も存続した旧国境は、おそらくは理にかなった(実情に沿った)区切りであったのではないかと思います。それと比べて、現在の都道府県などの行政区画は、明治維新の際にいわば強引に引き直されたもので、せいぜい百数十年の歴史しかありません。例えば兵庫県は、摂津の一部・丹波の一部・播磨・但馬・淡路(それと備前の一部)がくっついた寄り合い所帯であり、一緒くたに扱うことにそもそも無理があるのです。

  近年の市町村合併は、様々な思惑もあって、さらにいびつな境界線を作り出しています。

  さて、神戸市の中心部はもとの摂津国ですが、西区や三木市、小野市のエリアは播磨国でした。粟生線でいえば、今の藍那(あいな)あたりの峠が国境となります。従って粟生線は、元来異なる文化圏を結ぶ路線であり、それぞれの側から見れば、間に立ちふさがる峠のせいもあって、実距離以上に「遠い」存在なのです。(私も、神戸東灘から三木に引っ越すとなったとき、藍那付近の山の中を走る電車に、「一体どこに連れて行かれるのか」と不安になったものです。)神姫の快速バスの好調は、この‘国境’をノンストップで飛び越すことによる、心理的な近道感によるところが大きいと思います。

藍那付近をゆく電車
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  粟生線沿線は、ニュータウン開発によって「神戸の衛星都市」の面を持つようになったとはいえ、前述の通り、今や買い物などの必要は神戸に行かずとも地元でまかなえる環境が整い、団塊世代のリタイアなどにより、神戸への依存度は年々弱まっています。

  ですから、電車そのものの遅さに輪をかけて、国境越えという心理的距離感が働き、粟生線はその存在価値を失いつつあるという見方ができます。裏を返せば、粟生線沿線が「衛星都市」から「播磨文化圏の一部」に回帰しつつあるということになるでしょう。

  (続く

神鉄粟生線の窮状(4)

  震災後の神鉄の策は、「攻め」もあったものの、全体的に「守り」に入るものでした。

  2001年6月、神鉄は思い切ったダイヤの改正を行いました。このときより、それまで3両編成限定だった粟生線志染~粟生間を4両編成対応とし、それまで志染で強いられていた、4・5両列車と3両列車の乗り換えを解消。これは、直通利用者の便宜を図ると共に、それまでラッシュ時に志染で行われていた増結・解放を取りやめるなど、合理化に資するものでもありました。

この改正で、志染以西に初めて4両編成が入るようになった
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  同時に、このときから、谷上駅での北神急行との対面乗り換えが可能に。利便性が向上すると同時に、これは谷上駅の実質的な規模縮小でもありました。また西鈴蘭台駅の折り返し線も廃止。この跡地はコインパーキングなどになりましたが、このころから所有地の転用も目立つようになります。また、ラッピング広告車両を走らせるなどの増収策もとられるようになりました。

  さらに、合理化策として、駅の無人化と改札の自動化と列車のワンマン化が進行。粟生線で駅員の常駐する途中駅は、志染だけとなりました。2005年3月に、一部列車のみ停車していた菊水山駅が営業を休止、これにより全駅の自動改札化が成りました。同年6月に、全線で原則ワンマン運転が行われるようになりました。

  →菊水山駅休止前レポート(トラベラーズ ノート)

休止直前の菊水山駅。まだ車掌が乗務していた
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  粟生線関連では、2003年6月に、新開地~三木間の列車を小野まで延伸。これで、小野以東で日中15分間隔の運転となりました。(私の通学中にこれが実現していれば・・)また、上り列車において、有馬線の準急と接続させることによって、見かけ上新開地到着を早めるダイヤが組まれましたが、実際は乗り換えを強いられるうえに効果は薄く、2007年には昼間の準急を廃して、乗車機会を増やす方策に転じました。

立派な駅ビルを構える小野駅も、今は無人駅
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  こうして見ると、合理化と、できる範囲の工夫でなんとかしようとしてきた努力はうかがえます。しかし現実は抜本的解決に至らず、2006年には有馬口駅で立て続けに脱線事故を起こすなど、ほころびも露呈しています。安全性の確保と投資の限界というジレンマは、鉄道業界のどこにも付きまといますが、「山岳仕様」の神戸電鉄の場合は、特に厳しいものです。

  粟生線に関しては、4両直通化や小野までの15分ヘッド化と、「攻め」の姿勢も見られましたが、実際にはその間も、利用者の減少に歯止めはかかっていません。もっとも、仮にそうしていなかったならもっと減っていたかもしれず、一概に「効果がなかった」と結論づけられるわけではありませんが、これはすでに、一事業者の努力の領分を超えた問題だと言わざるを得ないでしょう。(もちろん、もっと早くから取り組んでいれば、もっと効果的な手も打てていたかも知れません。しかしこれも結果論です。)

  (続く

霧の朝、電車の影

  トラベラーズ ノートの今月のトップ画像は、2007年12月に三田市で撮影したものです。

  三田ではこの時期、朝には霧が発生しやすいそうです。おそらく、朝方の冷え込みがきついことに加えて、盆地部を武庫川が流れていることによるのでしょう。

  ここを走るJR福知山線は、朝ラッシュ時にはひっきりなしに電車が走って行きます。立ち上る霧に朝日が拡散し、そんな中からぼんやりと姿を現す電車の姿が、普段と違う風情を醸します。

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  この朝は冷え込みが厳しく、地面には真っ白に霜が降りています。この時点では一帯が霧の中。右側を流れているのが武庫川です。

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  やや霧が晴れ、朝日に輝きます。電車がシルエット状になって、面白い風景です。

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  サイトのトップに使っている写真です。この区間、113系電車はラッシュ時にしか走りません。

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  武庫川の土手。すすきの穂が霜で輝きます。

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  特急列車。だいぶ霧が薄くなり、霜も解けてきました。朝のラッシュももうそろそろ一段落です。

神鉄粟生線の窮状(3)

  1995年1月17日。阪神圏の人間には決して忘れられない日付です。この日に発生した阪神・淡路大震災は、甚大な被害を及ぼすとともに、「日常」を大きく揺さぶり、既成の概念をひっくり返してしまったと言っても過言ではありません。それから15年が経とうとしており、被害甚大だった地域を含めて、街そのものはほとんどがきれいな姿に作り直されましたが、内情は必ずしもそうではありません。

  もっとも、震災後に衰退した街というのは、おそらくはそれ以前から、高齢化などの問題を潜在的に抱えていたと思われます。しかし、本来ならもっと緩やかに進行していたであろう変化が、この震災を機に一気に起こってしまい、そのショックが更なる人離れを起こすという悪循環を招いてしまった感があります。これは、震災以後神戸電鉄に起きた事とも共通します。

  神鉄の被害は、路線網の「根元」である長田付近で大きく、全通は6月22日のこと。その間は、北神急行や代替バスでの振り替え輸送が続きました。この被害そのものも、神鉄の体力を大きくそぐことになりましたが、これ以降に生じた、流動の変化のほうが、より深刻でした。

  有馬・三田線系統では、1998年の「特急」廃止、そして2001年には谷上駅で北神急行との対面接続を図るなど、自社内でのスピードアップをあきらめたととれる方策。粟生線方面では、神戸市西区~三木市の沿線利用者が、西神に出て市営地下鉄を使う流れができました。

  たとえば、神鉄緑が丘駅前のバスターミナルでは、地下鉄西神中央行きの路線バス(また後述する三ノ宮行き快速バス)に乗ろうとする利用者の行列を目にすることがあります。西神行きバスの利用者が皆地下鉄に乗り換えるわけではないにせよ、駅の目の前で繰り広げられるこうした光景は、利用者の逸走を印象づけるものです。

緑が丘駅前のバスターミナル。西神中央行きバスを待つ人々
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  こうした動きに目を付けたのか、神姫バスは粟生線沿線と神戸を直結するバスの運行に乗り出します。2001年、三ノ宮~恵比須を結ぶ快速バスの運行を開始。主たるターゲットは、三木市の大きな新興住宅地である緑が丘と自由が丘の利用者。両ニュータウンを結ぶバイパス道路が開通したのを契機に、恵比須駅前から両ニュータウンを縦断し、緑が丘から木幡までは粟生線に沿い、そこから一気に三ノ宮を目指す路線が開設されました。主力として投入されたのは、高速路線に使われるようなリクライニングの車両。神姫バスの本気の程がうかがえました。

  両ニュータウンについては従来、子会社の神姫ゾーンバスが、団地内を巡回して駅に連絡するバスを運行していましたが、新路線は神鉄を介さず、団地から直接神戸中心へ運ぶものでした。さらに、三ノ宮までの所要時間や運賃の面でも、新開地での乗り換えや「二重初乗り」を抱える神鉄より有利で、快速バスはたちまち好評を博します。

2002年頃の恵比須快速バス。
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  開業当時は、終日1時間おきの運行でしたが、その後改正毎に増発が繰り返され、ラッシュ時には積み残しが発生することから、2台仕立てで走ることもありました。当初13-15往復だった本数は、現在39-40往復になっています。(Wikipediaより)

  またこの時期には、三ノ宮~三木・小野経由~西脇行きの急行バスが新神戸トンネル経由に切り替わり、こちらも三ノ宮~三木間で比較すると、神鉄より運賃・所要時間の点で勝っています。

  とはいっても、神姫バスが極端に神鉄より安いわけではなく、バスゆえに交通事情に左右される面もあります。にもかかわらず、神鉄利用者の多くが流れてしまったのは、それだけ沿線利用者の不満が大きく、バスがその「受け皿」になったためといえます。震災という不可抗力もあったとはいえ、神鉄のその後の対策は、常に後手に回っていると言わざるを得ないでしょう。

  (続く